琵琶湖周辺に広がる暮らしや文化の多様な姿に光をあて、私たちの未来を描くヒントを探る。
第1回は、滋賀県立琵琶湖博物館を訪ねる。
第2回は、高島市の南部地域を対象に、川の流域に人々が暮らし始めた歴史をたどり、そこに息づき受け継がれた祈りや祭などを紹介します。
第3回は、近江八幡市を訪ねました。琵琶湖岸にありながら山も平野も河川もある地形と温暖な気候により、古くから農耕が発達した歴史があり古墳も多く見られます。西の湖には島状の飛び地「権座」があり、今でも田舟で農業機械や米を運びながらの農業が営まれています。日牟禮八幡宮の例祭、八幡祭ではヨシで松明を作り灯す文化が今も継承され、人々の絆を結ぶ大切な行事となっています。
第4回は、滋賀県の湖北地方に残る観音信仰をお伝えします。湖北地方は古くから奈良や京都をはじめ東海地方や北陸地方にもつながる交通の要衝であり、軍事的にも重要拠点であったことから、姉川、小谷城、賤ケ岳など幾多の戦場となりました。そのたびに村人たちが自分たちの村の観音さんを守り、中には1,000年以上の時を超えた今も脈々と守り継がれている歴史があります。
歴史の教科書で登場する遣隋使の小野妹子。皆さんは小野妹子が滋賀県ゆかりの人物であることをご存じですか?旧志賀町の和邇・小野地区は、小野氏ら豪族がかつて活躍した場所でした。近江から日本の外交の礎が築かれたとも言えます。小野姓はこの地から広がったとの説もあり、小野一族の祖を祀る小野神社には全国各地から参拝者が訪れます。
野洲川は、琵琶湖へ流入する河川の中で最も長く、最大の流域面積を誇ります。野洲川の下流域は弥生時代に日本有数の穀倉地帯となり、守山市では全国的に注目度の高い遺跡が多く発掘されています。特に、国指定遺跡である伊勢遺跡では、わが国の成り立ちを知るうえで重要な手掛かりが発見されました。また、野洲市では、同じく弥生時代に農耕祭祀の道具として使われた銅鐸が多数見つかっています。
今回は、それらの遺跡や出土品から見えてくる「滋賀県のはじまり」を探ります。
米原市は新幹線停車駅で知られていますが、さかのぼると縄文時代から既に人々の暮らしや交流があり、江戸時代には中山道の宿場町も栄えました。
滋賀県内最高峰の伊吹山は、豊かな水や植物のめぐみをもたらし、今も昔も地元の方々の「里山」として親しまれています。
上野地区では、山の恵みに感謝する太鼓踊りがコロナ禍を経て8年ぶりに実施されました。
伊吹山は2023年7月に発生した土石流によってふもとからの登山道が閉ざされていますが、少しでも良い環境に戻して次世代へつないでいきたいと願う人々の想いをお聞きしました。
彦根市のシンボル、彦根城。天守は現存十二天守のうちのひとつで、国宝にも指定されています。
かつて堀と琵琶湖がつながっていて「水城」とも言われた彦根城ですが、幕末の争乱や廃城令、第二次世界大戦の戦禍からも運良く逃れ、変化に富んだ美しい姿を今に残しています。その彦根城をどのように後世に残していくのか?世界遺産登録への動きなど、彦根の歴史や文化の魅力を再認識し、新しいまちづくりに取り組む姿を紹介します。
現在の甲賀市は琵琶湖から離れた位置にありますが、かつてはこのあたりに琵琶湖が存在していたことを古琵琶湖層群という地質から知ることができます。
その地層の一部を目にすることができるみなくち子どもの森では、自然とふれあう機会を通じて、身近な自然に気づいてもらうきっかけづくりとなる活動が行われています。
また、今郷地区で棚田の保全に取り組まれている活動も紹介します。宿場町の風情が残る街並みや、水口岡山城、水口城にもふれます。
多賀町には豊かな自然と貴重な歴史遺産があります。
2億8千万年前の海の中でできた石灰岩が浸食されてできた河内の風穴は、関西でも有数の鍾乳洞です。また、今から約180万年前の多賀町は古い琵琶湖の池や沼が点在する湿地帯でした。
その地層から見つかったアケボノゾウの化石は、骨格の大部分がそのままの状態で発掘された貴重なもので、2022年には国の天然記念物に指定されています。
鎌倉時代に隆盛を極めた敏満寺の遺跡には、当時の人々の様子を知るうえで貴重な石仏谷墓跡が見つかっています。
延命長寿の神として古くより「お多賀さん」と親しまれ信仰を集めてきた多賀大社では、神社が自然と共存し、その中で人々が恵みを得てきた歴史についてお話を伺い、年の始めに行われた祭事「歳旦祭」を訪ねました。
東近江市は、鈴鹿の山々から琵琶湖までが一つの市域となった、森・里・川・湖が広がる多様性のある自然が特徴の市です。
能登川地区の伊庭町は湖東平野に残る水郷集落のひとつで、湧水を源流とする伊庭川から引かれた豊かで美しい水が町じゅうを水路として流れています。
伊庭の水辺景観は、平成27年に日本遺産として認定され、平成30年には重要文化的景観にも選定されています。戦乱や近代化の波を乗り越えて、先人から大切に受け継がれてきた伊庭町の水とともにある祈りと暮らしを訪ねました。
草津市には東海道と中山道との合流地点の宿場町として栄えた歴史があり、歌川広重の浮世絵には当時のにぎわいの様子が多く描かれています。今回は、浮世絵に登場する草津宿の昔と今を訪ねます。
貴重な史跡である草津宿本陣や、江戸時代の旅と街道をテーマに歴史文化を学習できる草津宿街道交流館を訪問し、さらには古くから地元の神社を支え、街道の整備にもあたられた居住組の方のお話も伺いながら、道の国として栄えた近江・草津の歴史をたどっていきます。草津市の花であるアオバナから作られる青花紙の技術継承についてもお話をお聞きしました。
霊峰 綿向山を東に望む日野町は、古くは渡来文化を取り入れた遺跡が見つかっていて、中世には蒲生氏郷に代表される蒲生氏の城下町として発展しました。
江戸時代には、近江日野商人が漆器の椀や合薬の行商から発展し、まちにも様々な文化をもたらしました。
日野町特有の景観である「さじき窓」を活かしたイベントや、合唱のまちとして知られる側面もご紹介します。
訪れた人を懐かしく感じさせる風景とあたたかい人々の想いにふれました。
豊郷町は、初代伊藤忠兵衛など代表的な近江商人を輩出し、さらにはその財を地元に還元する意向で建てられた豊郷小学校旧校舎群など、愛郷心を感じられる施設がいくつもあります。江州音頭発祥地としての保存継承の取り組みもご紹介します。
甲良町は、バサラ大名の佐々木道誉、築城の名手 藤堂高虎、日光東照宮の大棟梁 甲良豊後守宗廣の三大偉人ゆかりの地です。湖東三山のひとつ西明寺では、天台宗と琵琶湖の関係についても伺いました。
愛荘町は、鈴鹿山系からの豊かな水と自然に恵まれた町です。
渡来系の依智秦氏は農業水利や機織りなど高度な技術をもたらしました。町には古墳群も残っています。
愛荘町立歴史文化博物館では、依智秦氏や、金剛輪寺、郷土の偉人に関する展示を見ることができます。
国の伝統的工芸品にも指定されている上質な麻織物「近江上布」や、愛荘町のシンボル的な伝承工芸品「びんてまり」などの手仕事も特徴的です。
湖東三山のひとつ金剛輪寺では、自然の中に生かされている命の大切さを伺いました。
竜王町は、西に鏡山、東を雪野山に囲まれた町です。
いずれの山も別名で竜王山と呼ばれることから竜王町と名付けられました。
県内最古の前方後円墳、雪野山古墳など歴史的遺産も多く残り、鏡神社は源義経元服の地としても知られます。
また、竜王町は農業がさかんで、近江牛発祥の地であるほか、近江米や野菜、果樹の栽培、地元の水や米を使った酒造りも行われています。
農業を志す若い世代の流入もあり、活気あふれる農業を担う人々の姿がありました。
湖南市は、江戸時代に東海道の石部宿として賑わいました。
その旧東海道沿いには、国の天然記念物に指定されている平松のウツクシマツ自生地があります。1988年には、野洲川の川原で260万年前のゾウやサイなどの足跡化石が見つかりました。
これは学術的にも歴史的にも貴重な大発見で、その後の日本の足跡化石の調査研究を進めるきっかけとなりました。
湖南市を舞台に自分のやりたいことや地域とのかかわり方を探り、自分やまちの可能性を追求する取り組み「こなんSDGsカレッジ」を通して将来を見据える大学生にも出会いました。
栗東市の北部は古くから交通の要衝として栄えた場所で、現在では市街地の開発に伴い遺跡や古墳が多く発見されています。
一方、市の南部は自然豊かな地域で、金勝山には古くより豊かな仏教文化が広がりました。
国史跡の狛坂磨崖仏は、高さ6.3mの大きな岩に刻まれた石仏で、古代の石仏としては日本屈指の規模です。
また栗東市には東海道と中山道の2つの街道が通り、宿場町の間に設けられた休憩地「立場」では、胃薬の和中散や目川田楽が名物となりました。
大化の改新で知られる中大兄皇子は、緊迫した国際情勢を背景として西暦667年に飛鳥から大津宮へ遷都し、その後即位して天智天皇となりました。
大津宮は、記録に残るうえで初めて近江の地に移された都です。
天智天皇は、日本で最初の体系的な法令とされる「近江令」を編纂し、全国的な戸籍とされる「庚午年籍」をつくるなど律令国家体制の基礎をかためました。
近江神宮は、その天智天皇を祭神とし、大津宮の歴史を今に伝える「新しくも古い」神社です。
大津祭は、長浜曳山祭、日吉山王祭とともに湖国三大祭のひとつで、約400年の歴史があります。
江戸時代に、三井寺(園城寺)の門前町、大津宿の宿場町、そして幕府の直轄地となり港町として栄えた大津の「富」の象徴として、大津祭が誕生・発展しました。
京都の祇園祭の風情を色濃く継承した曳山13基が練り歩く壮大な祭りを支える地元の方々の想いに密着しました。